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英國名作図鑑141 ジャガー

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『ジャガー』は
イギリスを代表するラグジュアリーカーブランド


ウィリアム・ライオンズは、
マンチェスターの『クロスレー・モーターズ』で
見習いとして働いていた。
1921年
ウィリアム・ウォームズレイはライオンズと出会い、
ライオンズのサイドカー製作に魅せられていた。

1922年
イギリスのブラックプールで
モーターサイクル・サイドカー製作のために
『スワロー・サイドカー・カンパニー』設立。

1926年
工場を移転してオートモービルのボディ修理も手がけ、
コーチワークも手がけるようになり、
『スワローサイドカー&コーチビルディングカンパニー』と社名を変更。
オートモービルメーカーへの転身を図ることになった。
その上で、まずはオートモービル全体を一から造るのではなく、
コーチビルダーとしてボディを手がけることからその道を目指した。
最初におこなったのは『タルボット』のボディを
彼らのボディで載せ換える仕事だった。
これが評判となり自信をつけ、
その後は主に『オースチン』、他に『フィアット』、
『スタンダード』、『スイフト』などを手がけるようになる。

1927年
当時のイギリスにおけるベストセラー大衆車である
『オースチン』「セブン」のシャシに、
ライオンズ自身がデザインした
高級感のあるアルミ製ボディを換装したモデル
「セブン・スワロー」を発表した。
ロードスターに始まり、サルーンも追加され、
特にサルーンには特別な塗色としてデュオ・トーンまで用意された。
これは張り出したフェンダー部分とボディサイド・ルーフを
塗り分ける手法だが、
当時は一部の限られた高級車でのみ行なわれており、
量産自動車での採用は
「セブン・スワロー」が初である。
サイドカー製造の経験から
「美しい物は売れる」という思想を持っており、
元の車両より値段が高くなっても、
デザインが美しければそれを求める顧客は必ず存在すると考えていた。
その狙いは的中し、
「セブン・スワロー」は
1932年までに約2,500台を生産するヒット車種になった。

1928年
社名を『スワロー・コーチビルディングカンパニー』と変更するとともに
ビジネスが軌道に乗り、
依頼を受ける企業からもっと近くへ来るよう要請され、
英国オートモービル業界の中心地、コヴェントリーへ移転。
複数のメーカーからベースとなる車種を調達して新たなボディを架装、
またインテリアもコノリーレザーやファブリックを使い
ラグジュアリーに仕立て直すようになった

1929年
ロンドンモーターショーに出展。

1933年
『スタンダード』にシャシーの専用設計を依頼し製造させ、
それに架装した「SS1」と「SS2」を発表した。
ベントレーをも思わせる見栄えの良い外見と
ラグジュアリーなインテリアを備え、
不況下でも大いに売れたが、
エンジンは量産車メーカー『スタンダード』製の実用エンジンで
性能も凡庸であり、
オートモービル専門家やマニア層からは
「見かけ倒しのまがい物」と侮られていた。

1934年
『SSカーズ』と社名を変更した。

1935年
ボディだけでなくエンジンとシャシを含む
全てを専用設計としたモデルを開発することに成功。
この新型車には今までと区別する意味から
「ジャガー」という車名を新たに付け、
「ジャガー2½」として発表、
続いて大排気量エンジンを積んだスポーツモデル
「ジャガー90」「ジャガー100」を相次いで投入した。
各車は従前からの優れたスタイリングと豪奢な内装に加え、
強化されたエンジンと量産効果によるコストダウン戦略の導入で、
先発の高級車に劣らない高性能を遙かに安い価格で実現しており、
高い人気を得て、上級車製造を事業の中核に移していった。
上位メーカーに劣らない内外装デザインや性能を、
相対的に安価で顧客に提供するというこの手法は、
現在まで続くジャガーの基本ポリシーの1つとなる。

1939年
第二次世界大戦時には、
戦時体制下において乗用車の生産は縮小せざるを得なかったが、
ミリタリーヴィークルの委託生産などを行うことで糊口をしのいだ。

1945年
社名の『SSカーズ』は、ナチ親衛隊の略称「SS」と重なり、
その好ましくないイメージを想起させるため、
社名は『ジャガー・カーズ』、ブランド名は『ジャガー』となった。

1948年に発表された戦後型スポーツカーの「XK120」は、
その流麗なスタイリングと高性能、
また同程度の性能を持つ
『アストンマーティン』や『ベントレー』と比べて
圧倒的に安価だったことから大人気となり、
ラグジュアリーカーブランドとしてのイメージを決定付ける
重要なモデルとなった。
「XK120」はその多くが、
第二次世界大戦後の好景気下にあったアメリカ合衆国向けに輸出され、
多大な商業的成功を収め、
続いて発展型の「XK140」や「XK150」も送り出され、
戦災の復興下にあったイギリスの外貨獲得に大いに貢献した。

1950年代
レーシングカー開発に乗り出し、
オートモービル史上初めての4輪ディスクブレーキを備えた
「C」タイプと「D」タイプをエンデュランスレースに投入した。
特に24アワーズ・オブ・ル・マンでは
『フェラーリ』や『マセラティ』、
『メルセデス・ベンツ』や『ポルシェ』などのライバルを圧倒し
3連覇を果たすなど、モータースポーツでの活躍を重ね、
名声を確固たるものにしていった。

1950年代後期以降
スモールサルーンの「マーク2」、
全輪独立懸架のスポーツカー「E」タイプなどの
高性能車を市場に送り出し、
世界最大の自動車市場であるアメリカでの販路を拡大。
アメリカ市場で成功し、
イギリスの外貨獲得に大きく貢献することになる。

1956年
ウィリアム・ライオンズはイギリス王室より「ナイト」の称号を授かる。

1960年
ラグジュアリーカーメーカーの『デイムラー』を340万ポンドで買収。
「マーク2」の販売好調により工場を拡大する必要に迫られており、
同じコヴェントリーの『デイムラー』を傘下に収めることでそれを実現。
ブランド自体は残されたものの、
その後の『デイムラー』の主な車種は
ジャガーのバッジエンジニアリングモデルで占められるようになるが、
フロントグリル上端に細かい波型模様が付けられた
「フルーテッド・グリル」は、
『デイムラー』の特徴として残ることになる。

1966年、
イギリス最大ナショナルキャピタル・オートモービル会社グループである
『ブリティッシュ・モーター・コーポレーション』との合併を行い
『ブリティッシュ・モーター・ホールディングス』を結成した。

1968年
『ブリティッシュ・モーター・ホールディングス』
主要モデルの販売不振から、
ホールディングス自体が経営不振に陥ることになる。
事態を重く見たイギリス政府は、
もう一つのナショナルキャピタルグループである
『レイランド・モーター・カンパニー』との統合を決め
『ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション』として
参集させた。

『ジャガー』はスモールサルーンの後継モデルとなる
「XJ」を投入した。
しかし、本来は高級車メーカーであるはずのジャガーは、
作業員のレベル自体が
『ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション』の
平均に下げられることになり、
またこの時代のイギリスで多発した
レイバームーブメントの激化により
著しい品質低下に陥り、販売台数も大幅に減少。
また古参社員の引退が相次ぎ、
ライオンズも1972年に経営の座から退いた。

加えてオイルショックの影響も受け、
世界的にオートモービルの販売自体が激減する。
『ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション』は
深刻な打撃を受け、
5千万ポンドもの借入金を抱える有様となり、
遂に1975年8月に国営化され
『ブリティッシュ・レイランド』となる。

「E」タイプの後継として「XJS」を投入したものの、
品質の低さやデザインが市場に受けられず、
コンバーチブルモデルが無いこともあり販売は低迷を続けた。

1979年
当時のイギリスで頻発していた
インダストリアルディスピュートの影響もあり、
生産台数は5年前の半分以下に落ち込んでいた為
新たな経営トップとして社外からジョン・イーガンを招き
時代遅れで乱れた生産体制や経営の改革に着手し、
作業員の意欲向上、
取引先メーカーから納入されたパーツ類への厳格な品質チェックの実施
経営側と社員側が品質向上のため直接話し合うというQC運動、
販売手法の刷新と顧客からのフィードバック反映、
そして経営のリストラを推し進め、
品質は改善し生産台数も急回復した。

1984年
マーガレット・サッチャー首相による民営化政策によって、
『ジャガー』は再び民営化された。

1986年
抜本的な体質改善に成功した『ジャガー』は、
15年以上にわたりマイナーチェンジを繰り返しつつ
作られていたものの技術面や品質面だけでなく、生産効率にも劣る
「XJ6」の世代交代を図り、
完全な新設計となる「XJ40」をデビューさせる。
また、「XJS」も、
「XJ40」のエンジンや電装系、内装デザインを取り入れた
大幅なマイナーチェンジを行うなど
技術面や信頼性の向上に努め、
1980年代後半にはフルコンバーチブルモデルを追加したことから
アメリカ市場を中心に人気車種となった。
立て直しに貢献したイーガンは、王室より「ナイト」の称号を授かる。

1985年から参戦したワールドエンデュランスチャンピオンシップで
1986年「XJR-8」でシリーズチャンピオンを獲得。

1988年
「XJR-9LM」で31年ぶりに24アワーズ・オブ・ル・マンに優勝し、
かつての名声を取り戻すことに成功した。

1989年、
ブランドイメージを高く評価した『フォード』グループが、
25億ドルで『ジャガー』を買収し、
『フォード』の傘下に入ることとなる。
その後、同時期に買収されたイギリスのラグジュアリーカーの
『ランドローバー』や『アストンマーティン』などとともに、
『フォード』グループのラグジュアリーカー部門
プレミアオートモーティブグループの一翼を担うこととなった。
『フォード』傘下に入った後には、
『ランドローバー』や『アストンマーティン』だけでなく、
『リンカーン』や『フォード』との
コンポーネントやエンジン、パーツの共用を進めた。

1990年代
かつての人気車種の名前を使った
ミドルクラス・サルーンの「S」タイプや、
初の小型車である「X」タイプを市場に投入するなど、
かつてない勢いでモデルレンジを拡大した。

2000年
「ジャガー・レーシング」の名でフォーミュラ1に参戦した。

2000年代後半
『フォード』グループは深刻な経営不振により、
プレミアオートモーティブグループに属するブランドを
売却せざるを得ない状況に陥った。

2008年
『ジャガー』は『ランドローバー』と共に
『タタ・モーターズ』に約23億ドルで売却された。

2013年
『ジャガー』と『ランドローバー』は、
イギリスでの製造と輸出、および海外市場での販売を⾏う
個別のブランド法⼈として運営されてきたが、
経営統合され、『ジャガーランドローバー・リミテッド』に変更し
今後、両ブランドの製品の設計、製造、マーケティングを
担当することになった。

2014年
『タタ・モーターズ』に売却された後も、
『フォード』からダウンサイジングターボエンジンである
「エコブースト」の供給を受けていたが、
完全自社設計・開発・製造の新世代モジュラーエンジン
「インジニウム」に順次切り替えた。

2021年
新しいグローバル戦略「リイマジン」を発表した。
『ジャガー』と『ランドローバー』の
エレクトリフィケーションを推し進めて、
2030年までにすべてのモデルに
バッテリーエレクトリックビークルの選択肢を設定し、
2039年までに排出ガス量実質ゼロの達成を目指し
2025年に『ジャガー』ブランドの全ラインナップを
バッテリーエレクトリックビークル化すると表明。
これに伴い既存のエンジン車は順次廃止されることとなる。。

2024年、
ブランドロゴの全面変更を発表。
「マイアミアートウィーク2024」にて
コンセプトモデル「タイプ00」を発表。
「ゼロ・エミッション」と「ゼロリセット」の意味を込めて
新生ジャガーをアピールする。

2025年
欧州における月間販売台数はわずか49台に落ち込み、
前年同期比97.5%減を記録。
ガソリンエンジン車を廃止して、
EVに全リソースを投入する極端な経営戦略が裏目に出る形となった。
加えて、大規模サイバー攻撃を受けて生産が完全停止。


「E」タイプは、
『ジャガー』が1961年から1975年にかけて販売したスポーツカー。
「XK」シリーズに替わって
スポーツ/GTラインナップを担うオートモービルとして開発され、
1961年にジュネーブショーにて発表された。

それまで「C」タイプや「D」タイプのレースでの活躍により
スポーティなイメージが強まっていた『ジャガー』は、
そのイメージを利用するため後継車としてのXKの名称を用いず
レーシングカーとしてのつながりを示す「E」タイプを用いた。

空力を意識したマルコム・セイヤーによる
流麗なデザインと卓越した性能、
それでいてライバル車よりも安価で大きな人気を博し、
特にアメリカでは大ヒットとなった。

 エンジンは当初3,781ccの直列6気筒DOHCで、
後に4,235ccへと排気量が引き上げられ、
最終的には5,343ccのV型12気筒SOHCが搭載された。

当初は4速MTのみだったが、
途中からは3速ATを選べるようになった。

ボディーは全モデルを通じて
モノコックとチューブラーフレームが併用されていた。

後年は主に最大のマーケットであったアメリカの安全基準を満たすため
シリーズ2・シリーズ3へとモデルチェンジを行ったが、
当初の美しいデザインは次第にスポイルされていった。

「E」タイプはその14年の歴史の中で、
大きなモデルチェンジを3回行った。
それに応じ「シリーズ1」から「シリーズ3」の名称が与えられている。

1960年の24アワーズ・オブ・ル・マンに、
「E2A」タイプという車両がブリッグス・カニンガム・チームから
ダン・ガーニー/ウォルト・ハンスゲン組で出場。
最高速度は247km/hに達し、
序盤には一時3位を走行して注目を集めた。
当時「D」タイプに代わる新しいスポーツカーの開発を進め
製作したプロトタイプであったが、
トラブルが重なり10時間で85周目にリタイヤした。
この生産型が「E」タイプとして1961年にデビューすることとなった。

「シリーズ1  3.8リットル」は
1961年、ジュネーブショーにて華々しいデビューを飾った。
美しいボディラインのみならず、
当時としては夢のような最高速度240km/hを標榜し、
人々の憧れの的となった。
ボディーはロードスターの名で呼ばれるオープン2シーターと
クーペの2つから選ぶことができた。
エンジンは内径φ87mm×行程107mmで3,781cc、圧縮比9.0、
直列6気筒DOHCのXKエンジンに3連SUキャブレターを搭載し
モス製の4速MTの組み合わせで265hp/5,500rpm、
36.0kgm/4,000rpmと発表されたが、
同様のエンジンを積む「Mk-2」がツインキャブではあるものの
220hp/5,500rpmであるところから現在では疑問視されている。
ブレーキは『ダンロップ』製のディスクブレーキ、
サスペンションはフロントがダブルウイッシュボーンにトーションバー、
リアは2本ずつのショックアブソーバーと
コイルスプリングを備えた変形ダブルウイッシュボーンを採用。
ステアリングはラック&ピニオンであった。
ホイールはセンターロック式のワイヤーホイールが
標準で用意されていた。
最初期のモデルには通称「フラットフロア」と呼ばれるモデルが存在。
これは運転席床パネルが文字通りフラットなモデルで、
発売開始から1年も作られていないため希少価値があるが
運転の際にペダル操作がしにくいため、敬遠する向きもある。
これ以降のモデルはフットウェルが設けられ、
フロアは若干下に飛び出ることとなり、外観からも見分けることが可能。
3.8リットルモデルにおいては容量不足のブレーキと、
古い設計で1速がノンシンクロであった
『モス』製トランスミッションが不評だった。
また内装においてはグランツーリスモとしては不充分なバケットシート、
またセンターコンソールの欠如が顧客の不満を招いた。
美しくスポーティではあったインテリアのアルミニウム製パネルも
ラグジュアリー感という点においては今ひとつであった。

愛する1964年の「シリーズ1  4.2リットル」は
マイナーチェンジを受けたモデル。
主な変更点はエンジン、トランスミッション、インテリア、
そしてブレーキである。
しかし見た目にはほぼ何も変わっていなかった。
エンジンは内径φ92.1mm×行程106mmで
4,235ccへと排気量を引き上げられた。
最大出力こそ265hp/5,400rpmであったが
最大トルクは39.1kgm/4,000rpmと大幅に向上し扱いやすくなった。
キャブレターにも若干の変更があり、
排気マニフォールドも若干の変更を受けた。
トランスミッションは
『ジャガー』製のフルシンクロ4速MTへと換装され、
すばやいシフト操作が可能となった。
ブレーキは『ダンロップ』製から『ロッキード』製へと変わり、
パフォーマンスは若干向上した。
見た目に最も変わったのはインテリアである。
シート形状は見直され、薄いバケットシートから
たっぷりとしたクッションの容量を持ったシートへと変更。
インテリアに使われていたアルミパネルは姿を消し、
センターパネルは黒のビニールで覆われた。
コンソールボックス兼アームレストも設置された。
いずれもグランドツアラーにふさわしい変更であり、
快適性は飛躍的に向上した。
元来、ロードスターではトランクリッドに、
クーペではテールゲートに設置されていた
「Jaguar」エンブレムに加え、
そのエンブレムの上に「E Type」、
下には「4.2」のエンブレムが追加された。
1966年のジュネーヴショーで2+2がデビューし
ロードスター、クーペと併売された。
これは2人乗りクーペのホイールベースを伸ばし、
さらにルーフラインを高くすることによって
+2のバックシートを稼ぎ出したモデル。
ホイールベースの延長により
ドライブトレーンを搭載するスペースにゆとりができたため、
4速MTに加えて
『ボルグワーナー』製3速ATを選択できるようになった。
このモデルはバックシートとATにより更に実用性が高まり、
更なる顧客を増やすことに貢献した。

「シリーズ1」は1967年から1968年にかけて1年弱の間に
アメリカ連邦安全基準に適合させるための変更を徐々に行った。
正式には「シリーズ1」であるが、
「シリーズ2」との共通点が数多くあるため、
中間のモデルとして「シリーズ1 ½」と呼ばれるようになった。
国外向けと国内向けで変更点が異なったり、
1年弱かけて少しずつ変更したため様々な仕様があり、
一概にいつどのような変更が行なわれたのかを説明することは
専門家にも難しい。
外観において最も大きく変更を受けたのはヘッドライトであり、
ボディラインに溶け込むようなデザインを生んでいた
ガラスカバーが取り除かれた。
ホイールのスピンナーはイヤーがなくなったため、
ホイールの取り外しのためにはアダプターが必要になった。
また、アルミのポリッシュ仕上げの美しいエンジンのヘッドカバーは、
ブラックとシルバーに塗装されたものへと切り替えられた。
インテリア・ライティングに関してはハザードスイッチが新設、
スイッチがトグル式からロッカー式に切り替えられたことが主な変更点。

1968年に「シリーズ2」へと進化した。
外観の変更は主にアメリカ連邦安全基準に合わせたためだったが、
機能上の問題から変更された部分もあった。
現在デザイン面においてあまり人気がないことは否めないが、
最も実用に耐える「E」タイプである。
変更点は多岐にわたり「シリーズ1」に存在した様々な欠点が払拭。
最も目立つ変更点はライツ類である。
ヘッドライトカバーは「シリーズ1 ½」と同様取り去られ、
明度を確保するためにヘッドライトユニット自体が前進した。
ヘッドライトユニットの上からボンネットに沿って
クロームメッキのラインが追加。
フロントのインジケーターとリアのブレーキランプとインジケーターは
それぞれバンパーの下へと場所を移し大型化された。
ボディ関係ではバンパーの形状および位置が見直された。
リア、フロントともに大型化され、
リアバンパーは位置が上げられた。
フロントバンパーの中央部、
ラジエーターグリルの前には1本太いバーが通され、
ジャガーマークはその上に移動された。
ラジエーターグリル自体も大型化され、冷却効率が上がった。
特徴的であった3本のワイパーは一般的な2本に改められた。
ブレーキは『ロッキード』製から『ガーリング』製に変えられ、
制動力が飛躍的に上がった。
ホイールのスピンナーのイヤーは「シリーズ1 ½」同様、
歩行者を引っ掛けないようにという目的からなくなり、
ホイールを外すときにはアダプターが必要になった。
インテリアにおいてはシートがリクライニングになり、
ヘッドレストがオプションで選べるようになった。
スイッチ類は「シリーズ1 ½」で採用となった
ロッカー式が引き続き採用。
エンジンは「シリーズ1」から引き続き使われた
直列6気筒の4,235ccであるが、
「シリーズ1 ½」で触れたようにエンジンのカムカバーが
美しいポリッシュ仕上げではなくなり、
ブラックとシルバーに塗装されたものへと換えられた。
ヨーロッパ仕様はSUの3連キャブレターを採用していたが、
アメリカ仕様では排気ガス規制への対策から
ゼニス・ストロンバーグ製キャブレター2基を
搭載することを余儀なくされ、
パフォーマンスはかなり低下した。
一方ラジエーターは容量がアップし、
オーバーヒートの心配がなくなった。
特に暑い国ではラジエーターグリルの大型化とあいまって
かなり信頼性が向上した。
トランスミッションも「シリーズ1 4,2リットル』と同様である。
ボディータイプは引き続き
ロードスター、クーペ、2+2の3種から選べた。
2+2はフロントガラスの形状が見直され、
傾斜がかなり強まった。

「シリーズ2」の生産が終わってしばらく後の1971年、
「シリーズ3」は発売を開始した。
アメリカの安全基準に適合させるために骨抜きになり
エンジンをウォルター・ハッサンとウォーリー・マンディにより設計。
内径φ90.0mm×行程70.0mmで5,343cc、
圧縮比9.0の新開発V12気筒エンジンに置き換えることで
そのパフォーマンスを回復した。
キャブレターはゼニス・ストロンバーグ175CDSEを
片バンク2機ずつ備え、
272hp/5,850rpm、42.0kgm/3,600rpm。
アルミブロックを採用したため6気筒と比べても
重量増はわずかに留まり、
最高速度は227km/h、0→60mph加速は6.9秒を記録した。
まさにシルキー・スムーズなすばらしいエンジン。
新型エンジンは最初に生産規模の少ないスポーツモデルに搭載し、
市場へのテストベンチとするという役割もシリーズ3は担っていた。
当初レーシング・プロトタイプである「XJ13」に搭載した
ツインカムの5.0リットルV型12気筒エンジンをデチューンして、
搭載しようと考えていたようだ。
しかし量産するには機構が複雑すぎることもさることながら、
何よりツインカムのヘッドが
狭いエンジンベイに納まらないことから採用は見送られ、
代わりにシングルカムのV型12気筒エンジンを搭載することとなった。
ボディタイプはクーペが廃止され
ロードスターと2+2の2タイプのみとなった。
ロードスターも2+2のシャシを使っていたため、
ホイールベースはかなり延長された。
その結果ロードスターのラゲッジスペースは拡大され、
また従来は2+2でしか選べなかった『ボルグワーナー』製の3速ATが
ロードスターでも選べるようになった。
従来どおりいずれのモデルにも『ジャガー』製4速MTも用意された。
外装は大きく手直しを受け、
「シリーズ1」のシンプルな美しさはなくなったが、
代わりにパワーとラグジュアリーさを備えていた。
フロントにはメッキの格子状グリルが付いた。
その横のバンパーにはアメリカの基準に合わせるべくつけられた
不恰好なオーバーライダーがつけられていた。
重量増に対応するためタイヤは太くなったが、
それを飲み込むためにホイールアーチには前後ともフレアがつけられた。
フロントライトにはサイドライトが組み込まれたが、
それ以外ライトは大きな変更を受けず、
そのまま「シリーズ2」のものが用いられた。
インテリアではシートが新設計のものとなった。
ヘッドレストは国によって義務付けられたり、
オプション扱いになったりした。
ステアリングはウッドステアリングが廃止になり、
代わりにレザーが取り付けられた。
その他パワーステアリングが付いたこと、
ブレーキのディスクが通風式になったこと、
ノーマルホイールがワイヤーからメッキカバーの付いた
スチールホイールへと変更されたこと、
サスペンションも若干の変更を受けた。
これらの変更を受け大きく姿を変えたが
しかしこの時点ですでにかなり旧態化しており、
すばらしい新型エンジンはむしろ
その旧態化したシャシを目立たせてしまう結果となった。
折りしも当時はオイルショックのまっただ中であり、
時代がスポーツカーには全くの逆風だった。
さらに悪いことにはこのときすでに
『ブリティッシュ・レイランド』傘下に入っていた『ジャガー』の
品質はかなり落ちており、
最大のマーケットであるアメリカにおいて
よく壊れるオートモービルとのレッテルを
貼られる羽目に陥ってしまった。
2+2クーペは1973年末、
ロードスターは1975年に製造中止となった。
なお最後の50台にはライオンズのサインが入った
ゴールドのプレートがパッセンジャーシートのパネルに張られている。
50台のうち49台は特別色のブラックで塗られてラインオフした。
最後の1台はジャガー・ヘリテッジ・トラストに展示されている。

キャスケットハット : 『ハリスツイード』×『フェイルスワース』
ウィンザーリムラウンドスペクタクルズ : 『アルガ 』
デニムシャツ : 『バブアー』
コーデュロイトラウザーズ  : 『バブアー』
ツイードウエストコート : 『ムーン』×『ポールスミス』
コットンメッシュダブルリングベルト  : 『ハルシオン』
カントリーギリーブーツ:『トリッカーズ 』
フープピアス : 『リンクス』
アーマーリング : 『ヴィヴィアンウエストウッド』
ナックルリング:『ヴィヴィアンウエストウッド』


注:これらの作品は重田将秀店長の所有物であり
オーダースーツSADAでは販売しておりません。